NR出版会連載企画 
本を届ける仕事40
海文堂書店、閉店の後で
平野義昌さん(元海文堂書店/兵庫県神戸市


 全国の書店員さん、ご無沙汰しております。とは言うものの、お若い書店員皆さんは「あんた誰?」の反応でしょう。十二年前に書店員を引退した爺さん(七十二歳)が昔の名前で出てまいりました。爺さんは引退以来、週三日パートタイム労働に汗を流し、家人の指導を受けながら毎日家事に励んでいます。楽しみは近所の図書館通いと買い物ついでの書店徘徊です。年に一、二度孫に会うために上京します。ついでと申すと失礼ですが、NR出版会訪問も恒例行事となりました。このたびは「NR出版会新刊重版情報」寄稿の栄誉に預かりました。爺さんがジタバタと本を出すことになり、ご配慮くださいました。感謝申し上げます。この歳での出版に何の意味があるのか? 葬式用の饅頭本しか思い浮かびません。皆さんの呆れ顔が想像できます。

 引退後、地元の「みなと元町タウン協議会」から月刊紙連載要請を受けました。神戸関連本の紹介をするつもりでしたが、元町の文化史を調べ出すと力が入った次第です。十年と五ヵ月続けましたが、本書収録はその半分ほどです。それでもA4変型判、二百ページを超えてしまいました。昨今の資材・経費高騰により、爺さんには分不相応な販売価格になりました。刊行予定がどんどん遅れて、飲み仲間が心配してくれていたのですが、いつの頃からか励ましが哀れみになり、ついには蔑みとなりました。

 内容は元町と周辺の町街の歴史、事件、ゆかりの人物を追うものです。第一話は古巣の書店閉店の模様ですが、第二話から文学者が登場します。一九三二(昭和七)年十二月、堀辰雄が神戸駅に降り立ち、タクシーに運賃をかけ合い、元町商店街に到着します。三丁目の喫茶店から電話で友人・竹中郁を呼びます。堀の目的は竹中の出版記念会出席です。

 詩人に続くのは、未来派作家、画家、露店商人、悪童、探偵小説家、映画解説者、植民地出身者、美術蒐集家、乱世の経営者、丁稚どん……。文化史に名を残す人物から歴史に埋もれた人、神戸生まれ・神戸育ちの人、港に流れ着いた人、短期間で通り過ぎた人もいます。生活の心配をせず芸術に打ち込める人もいれば、地べたの庶民の視線で世間を見つめた人たちもいます。私財をなげうって社会に貢献した人、病や貧困に立ち向かった人、そして大勢の名も無き人びとがいます。民衆は時に大きなエネルギーを爆発させます。日本一の会社が現われ消えました。米騒動、労働争議、阪神大水害、空襲など大事件は、町街、商店、人びとの暮らしに大きな影響をもたらしました。ヨーロッパでの戦争で好況を享受し、最先端の文化が花開きました。モダンガール・モダンボーイが元町を闊歩しました。やがて不況・災害に襲われます。国全体が昭和の十五年戦争に突入します。新興海港都市のさまざまな姿は今を生きる私たちの問題でもあります。

 爺さんには文学性なし、確固たる主義主張なし、たいそうな歴史観も身についていません。あっちの本、こっちの資料に右往左往し、ふにゃふにゃの文章を綴りました。信頼する編輯者が記述の間違いや文献の誤読を徹底的に正してくれました。根気強く、辛抱に忍耐を重ね、時に怒りで爺さんを衝き上げました。写真図版を厳選し、のちに神戸近代史を調べる人のための資料となるよう整えてくれました。丹念に作成してくれた年譜、人名・事項索引は圧巻です。特に年譜によって本書の骨格が引き締まりました。私の本文に対する批判・異論も含まれています。表紙写真は戦前の写真家・安井仲治の作品「相尅」です。番外編として、書店仕事の大恩人と本の友への追悼記を掲載しました。

 多くの方から多大な協力と支援を頂戴しています。皆さんからご意見、批判賜りますれば幸甚に存じます。

 最後に。皆さん、日々のお仕事お忙しいでしょうが、どうぞお身体大切に。ではまた。



平野さんの前著『海の本屋のはなし』(苦楽堂、2015年)には2013年9月に惜しまれながら閉店した海文堂書店の歴史と記憶が綴られ、流れた汗や堪えた涙までもが目に浮かんできました。今回の新刊は、神戸の街の歴史や文化、そこで生きてきた人々を掘り起こすという平野さんの長年にわたる大仕事がまとめられた、とてつもない熱量が伝わってくる一冊です。(事務局・天摩)

(「NR出版会新刊重版情報」2025年7・8月号掲載)

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