NR出版会連載企画 
本を届ける仕事38
ちくさ正文館と古田さんのこと
山口 章(風媒社代表/愛知県名古屋市


 一九六一年の開店以来、長きにわたって名古屋の文化を支えてきたちくさ正文館が閉店したのは、昨二〇二三年七月三一日でした。店長の古田一晴さんによる目利きの棚は、地元の方のみならず多くの読者を魅了してきました。
 閉店から一年あまり経った一〇月一〇日、古田さんは亡くなられました。享年七二でした。
 出版社営業として、古田さんとその棚をすぐそばで見つめ続けてきた風媒社代表・山口章が思い出を綴った追悼文を掲載いたします。

               * * *

 長い付き合いだが、あくまで書店と出版社の関係であった。古田さんにはもう一つ、映像作家としての顔もあるのだが、その分野の接点は私にはない。したがって、古田さんの半分しか知らないことになる。

 世界で活躍するピアニスト、アリス = 沙良・オットが、演奏と映像を組み合わせたコンサートを開催している。クラシックでは珍しい試みだ。ショパン作曲「二四の前奏曲」を弾く彼女の後方に、トルコ出身のハカン・デミレルの映像が流れるのだが違和感を感じた、というより邪魔であった。古田さんにこの話をしたら、すでにこの試みはよく知っていた。三〇分近い蘊蓄の後に「ピアニストは、その映像でより華麗で陰影に富んだショパンを表現できると考えたんだよ。理屈じゃなくその世界に身を委ねればいいんだよ」と照れ笑い。あらためて情報収集力と核心をついたコメントに感心したものだ。

 一見強面だが気配りの人であった。どんなに忙しくても「おーっ」と笑顔で来客を歓迎する。だが社員、アルバイトには厳しい人だった。私が後身の話をしたことがある。「パソコンばかり見て、本を見ない、棚を見ない、客を見ない」と怒りを口にした。お店は真剣勝負の場所なんだとあらためて感じた。

 ちくさ正文館は新刊配本に頼らない、注文の比重が大きい店だった。古田さんは、版元から送られてくる膨大な注文ファックスに必ず目を通す。それも瞬時に。そして必要最低部数を注文書に書く。その瞬間、顧客の顔が浮かんでいるのではないだろうか。売れ筋の芥川賞や直木賞などの作品も例外ではない。完売して終わり。追加注文はほとんどしない。無ければ他のお店で購入すればいいと。大事なのは既存の棚、古田棚なのだ。これには何度も魔法をかけられた。

 『裏声歌手のモンテヴェルディ偏愛主義』(二〇一八年、アルテスパブリッシング)が一冊だけ面陳になっていたことがあった。クラシックファンでもモンテヴェルディを知る人は少ない。まして、古田さんが知るはずがない。だが、この人からバロック期が始まったという音楽史では欠かせない人物である。独特の嗅覚で一冊だけ仕入れたのだ。注文書に「一冊、古田」と書いた時、二、三人の顧客の顔を思い浮かべたのではないか。そして、現代作曲家ジョン・ケージの横に並べる。バロック時代の作曲家バッハやヘンデルではなく、ジョン・ケージの横にあったから私は手が出たのであった。この感覚は分かる人にしか分からないかもしれない。これが古田さんの魔法だ。

 狭い売り場、少部数しか置けない棚だからこそ、このような感覚が必要になる。季刊誌『名古屋発! 自転車大好き』(ブックショップマイタウン)が二〇二〇年一月に発行された。発行部数は一〇〇部。版元は地方小扱い(地方小出版流通センターに流通を委託するが、原則買切で新刊委託はない)で、営業をしない。にもかかわらず、創刊号が一〇冊並んでいた。名古屋でこの冊子を並べたのはちくさ正文館だけだった。号を重ね、他の書店も並べるようになると、俺の役目は終わったと入荷数を減らす。人文や社会以外に、このような分野にも目配りする情報収集力と嗅覚は誰にもまねのできないものだった。

 書店営業の仕事は、新刊の紹介と既刊本のチェック、業界の意見交換だが、古田さんとはそのような話をしたことがない。良く言えば芸術談義だが、いわゆる雑談だ。雑談できない奴はだめだと言い切るから私には嬉しい。困るのは固有名詞で、そのほとんどを私は知らない。あいまいに頷くのだが、長時間にも及ぶと疲れる。訪問する時は後に予定を入れないようにしていた。

 さまざまなことが思い出されるが最後に……、古田さんは、初代経営者の谷口暢宏氏に仕え、「アルバイトで入社(一九七四年)してから、岩波書店の本を置きさえすれば、あとは何も言われなかった」と述懐している。その方針は息子さんの正和氏にも引き継がれ、その期待に応えて専門的、個性的な店づくりに励み、全国にも稀な、業界人も注目する書店に育てあげた。経営者はもちろん「人」に恵まれた幸せな人生だったと思う。

 またいつの日かお会いしましょう。ご冥福をお祈りします。



『名古屋とちくさ正文館』(2013年、論創社)に収録されているインタビューのなかで、「店頭の日常こそが、ライブみたいなものですよ」とおっしゃっていた古田さん。あらためて読み返しながら、私たちは日々巧妙な仕掛けがなされた棚や平台にすっかり魅了されていたのだな、とほんのり煙草の香りが漂う店内で働く古田さんの姿を思い出していました。 (事務局・天摩)

(「NR出版会新刊重版情報」2025年1・2月号掲載)

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