2020.07.09 up 






NR出版会連載企画 
本を届ける仕事17
 大好きな書店員の仕事に誇りをもち続けた彼女の分まで
板垣幸恵さん(くまざわ書店須賀川店/福島県須賀川市


 私がこの須賀川店に異動してきたのは、三年前でした。前店長の菅原聡子さんが体調不良により別の店舗への異動が決まり、急遽、私がこの店に来ることになりました。

 当時の私は、店長職は経験していましたが、須賀川店の規模の大きさ、スタッフの多さに圧倒され、はたして私に務まるのかという不安がありました。地域一番店を目標としているこの店は、広さに比例して商品数も多く、専門書も取り揃えています。菅原さんは、店の立ち上げから店長として長く須賀川店で勤務しており、東日本大震災のときには半壊した店舗をスタッフとともに再開し、乗り越えてもきました。

 そんな店を引き継ぐことになり大きなプレッシャーを感じている私に、菅原さんは体調が万全でない中でも、優しく根気よく引き継ぎを行ってくれました。

 ひと月あまりの引き継ぎ最終日、菅原さんから「自分らしくとにかくやってみて」と書かれたメッセージカードをいただきました。そのカードを手帳にはさんで何度も読み返しては、励みにしてきました。

 菅原さんは店を離れた後も、何か問題が起こったとき、壁にぶつかったとき、悩んだときには電話で気軽に相談にのってくれました。体調が落ち着いた頃には何度か来店され、私やスタッフの様子を見に来てくれました。元気そうな姿を見て、スタッフとともに安堵した記憶があります。

 
 それからしばらくして、彼女の訃報が届きました。

 
 知らせを聞いたあの日からまもなく二年が経ちますが、未だに彼女がいないことが信じられません。

 会議の席では率直な意見をズバッと発言したり(私はハラハラドキドキしながら聞いていました)、ふらっとお店にやってきては、おいしいお土産をなにげなく置いて行ってくれたりした菅原さん(彼女はとてもグルメでした)。彼女を知る人とは、今でも「前のようにお店にふらっと寄ってくれそうだよね」と話していますし、電話をかけたら彼女が出て、「そんなの、こうすればいいのよ!」と、びしっと軽快に解決してくれるのではないか、という気がしてしまいます。

 ご家族のお話では、菅原さんは最期までこの店のことを気にかけていたそうです。実に彼女らしいと思いました。誇りをもち、本当に好きな書店員の仕事を続けてこられたんだと思います。

 菅原さんの病気がわかったとき、一緒に働いていたスタッフたちは「きちんと検診を受けなさいよ」と気にかけてもらったそうです。スタッフからの信頼も厚く、私にとっても書店員の先輩として彼女はとても大きな存在でした。お客様のための店づくりに妥協せず取り組む姿は頼もしく、尊敬していました。多趣味で知識も豊富で、ひとことで言うと大変かっこいい人でした。

 菅原さんのことを想うとき、彼女がもうしたくてもできない、理想の店づくりをしていかなければ、という思いに駆られます。掲げた理想をスタッフたちと分かち合い、最期まで店のことを考えてくれていた彼女の分まで、希望をもって働きたい、しっかり引き継いでいきたいという思いでいます。

 今でも、菅原さんならこんなときはどうするかな、どんな意見を言うかなと考えるときがあります。私の中の彼女の声を想像しながら仕事をするときもあります。そして、いつも須賀川店をどこかから見守ってくれているという気がしています。

 思い出すと彼女がいない事実がたまらなくなって涙してしまいますが、そんなとき、「そんなメソメソしてないで仕事しなさいよ!」という彼女の明るい言葉と笑顔が思い浮かびます。今でも、彼女の言葉は私の背中を押してくれます。

 正直なところ、今の私自身は、書店員とは何か、書店とはどうあるべきか、そんなことを考える暇もなく毎日が過ぎていくのが現状です。けれども、いつか彼女が目指した書店に少しでも近づけるよう、日々の仕事に取り組んでいきたいと思います。


菅原さんは、病気がわかってからはご実家近くの福島市内のお店の店長となり、治療を続けながら勤務されていました。亡くなるひと月前、入院することになるその日の朝も、いつものように自転車で仕事に出ようとしていたとご両親からお聞きしました。どんなときも全力で仕事と向き合われた菅原さん。本紙には、東日本大震災後に2度ご寄稿いただきました。自分の仕事へのこだわりを常に大切にされていたのだと思います。2度目の掲載のとき、「スタッフから「店長らしくない」と言われ一から書き直しました」とおっしゃっていたことを思い出します。(事務局・天摩)


●菅原聡子さんのこと●

 東日本大震災の後、加盟社有志で福島を訪れるようになりました。年に数回、今でも年1回は書店さんに会いに行く旅を続けています。出張の帰途に福島県内で被災し、現地の方々の助力で東京に戻ることができたという新泉社の安喜氏の呼びかけを受け、以来、毎年有志数人で出かけ、私も参加させてもらっています。

 菅原聡子さんに最初の原稿依頼をしたのは、2度目の訪問となる2011年秋。凛とした雰囲気の彼女を前に、どぎまぎしながら執筆をお願いしたことを覚えています。震災直後のことが書かれた「お客様との何気ないやりとりのなかで」は本紙の2011年12月号に掲載しました。その後も毎年お邪魔し、震災から4年後に再び執筆をお願いしました。2015年4月号に掲載した「忘れていないという思いを伝える棚に」には、風化が言われるなかでも、「震災・原発・放射能関連本」コーナーをなくさずに続けようとする強い意志が綴られていました。


 2016年5月、本紙の一面特集をまとめ単行本『書店員の仕事』を刊行しようと、執筆者の方々に転載のご許可をお願いする手紙を出しました。しばらくして、菅原さんから収録を辞退したいと返信がありました。何か事情があるのだろうと思いながらも、収録させていただきたい一心で電話を差し上げ、どうしてもと駄々をこねる私に、「手術をしなければいけないかもしれない」と打ち明けてくださいました。遺書にしたくないから、辞退させてくれ、と。余計な心労をかけたくなくて言わないでおこうと思ったのだけど、という言葉に、受話器を握りしめながらさらに涙が流れました。

 菅原さんのお気持ちを汲むのなら収録しない道を選ぶべきでしたが、どうしてもできず、ご負担をかけるとわかっていながら手紙を書きました。菅原さんの文章が入っていない本は、大切な部分が欠けた不完全なもので、絶対にありえないという思いでいっぱいになり、到底あきらめられなかったのです。そして、あらためて気づいたのは、この文章にはスタッフの方々の思いも込められていて、あの当時の菅原さんにしか書けなかったものだということでした。

 結局、あきらめきれないまま、本の刊行も間近に迫った2017年1月、お店を再び訪れました。あいにく、菅原さんは帰宅された後で、手紙を置いてきました。後日、電話で「みなさんがそこまでおっしゃってくださるのなら」と承諾いただき、3月末に『書店員の仕事』を無事刊行することができました。

 この年の11月にお店を訪問したときはお休みでしたが、スタッフの方から元気に店長のお仕事を続けておられると聞き、安堵していました。そして2018年の秋、板垣さんとの電話で菅原さんが8月13日に亡くなられたことを知りました。


 2019年7月、菅原さんのお父様から、娘の一周忌に参列してくれた方々に『書店員の仕事』を差し上げたい、とのご連絡がありました。9月にお墓参りをさせていただき、ご両親に、私たちが知る菅原さん、交わした言葉、思い出を伝えることができました。本が、書店員の仕事が大好きで、並々ならぬ情熱をもって働いていたこと。姉御肌で、店の垣根を越えたくさんの方に慕われていたこと。最後の最後まで、気丈に自分を貫きとおしたこと。私たちもまた、知り得なかった菅原さんを知りました。


  『書店員の仕事』の序文に、NRの先達が残した文言が紹介されています。そのなかの「一冊の本にひとはいのちを賭けることもある。/一冊の本に出会うということは素晴らしいことだ。」という言葉は、菅原さんの生き方をも表しているように思えます。菅原さんが書店という場に蒔いてきた種は、一緒に働いてきた仲間や読者のもとで芽吹き、花を咲かせ実を結び、また種になりめぐっていく。菅原さんが残してくれたものは、そんなふうに広がり続けていくのだろうと想像せずにはいられません。(事務局・天摩)

(「NR出版会新刊重版情報」2020年7・8月号掲載)

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