2019.06.07 up 






NR出版会連載企画 
本を届ける仕事13【特別編】
 舘野皙さんインタビュー


 二〇一四年、NR出版会で韓国への研修旅行の計画がもちあがり、韓国の出版事情に精通されている舘野さんに連絡したのが、私たちと舘野さんとの出会いでした。親しくされている出版社の社主や出版関係者をご紹介いただき、現地訪問と交流が実現しました。その後、韓国の出版物を日本に紹介する「K-BOOK振興会」関係者の方々とも引き合わせてくださり、交流が深まりました。昨年の大連研修旅行の際も現地の情報をいただき、有意義な旅となりました。
 このたび、舘野さんに本紙への寄稿をお願いし、さらに詳しくお話をうかがいたいとインタビューをさせていただきました。四五点を超えるご著書や翻訳書の一覧を拝見しながら、「この本の翻訳者だったんですか?」「そうだよ」というやりとりが何度もありました。

◎インタビュー:
     深田卓(インパクト出版会)+安喜健人(新泉社)+天摩くらら(事務局)

安喜:舘野さんは、長年にわたって韓国や中国の出版物を日本に紹介し、人と人をつなぎ、出版を通した草の根の文化交流に尽力されてこられました。とりわけ韓国の出版物、出版事情に関して日本で最も熟知しておられる第一人者であり、近年の韓国文学翻訳ブームの礎ともいえる活動を地道に続けてこられました。私どもも、韓国の出版物の版権取得にあたり、舘野さんに仲介の労をとっていただいたり、ご助言を頂戴したりと、お世話になり続けています。
 舘野さんは、一九八九年から三〇年にわたって「出版ニュース」誌に韓国の出版事情を紹介する「海外出版レポート・韓国」の連載を毎月続けてこられました。

舘野:ぼくは一九八〇年代から「出版ニュース」の読者でした。編集長の清田義昭さんに、「海外出版レポートにはなぜ韓国が入っていないのか」と訊ね、経験不足も顧みず、「担当させてほしい」と手を挙げたのが連載のきっかけでした。
 初めて韓国を訪れたのは一九六八年です。日韓基本条約が一九六五年に結ばれた三年後、韓国がまだ貧しい、それこそガム売り、靴磨きの少年が路上にいるような時代です。ぼくは一九六〇年から都庁の労働経済局に勤めていて、当時、視察団の一員として行ったんですが、そのときの韓国の方との出会いが大きなファクターになりました。非常にショックを受けましたね。そのときまで考えていた韓国と、実際に体験した韓国との落差がとても大きかった。こんなに近い国について何も知らないじゃないかってね。
 『ユンボギの日記』(太平出版社、一九六五年)って知ってるでしょ。あれは早い時期に日本人の韓国観を支配した本なんですよね。ぼくも読んで、韓国という国は暮らしていくのは大変だなと思いました。でも、実際に行ってみると確かにそういう側面もあるけど、多くの庶民はもっとたくましく生きているんですよね。そのことを伝えるほうが大切じゃないかと思ったわけです。
 それから毎年、自費で訪ねるようになりました。初めて訪れた翌年から、日本朝鮮研究所(今の現代コリア研究所)に通って朝鮮語を勉強し始め、歴史問題を勉強する研究会にも通いました。一九七三年、京橋に「韓国書籍販売センター・三中堂」ができてからは通いつめ、支店長から韓国の出版の話をたっぷり聞かせてもらい、関心を持つようになりました。

天摩:著作一覧を拝見すると、共訳で初めて本を出されたのは一九八一年、グループ草の根編訳で『民衆の結晶 ―韓国民主化運動の底流にあるもの』(現代書館)とあります。

舘野:ありがたいことに、文芸評論家の先生に月二回教えていただけることになり、実力をつけるためにと翻訳の下訳を割り当てられたりして、かなり鍛えられました。安先生の指導を受けた仲間と翻訳して単行本になったものが五、六点あります。

深田:最初に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)ではなく、韓国に行かれたんですね。あの頃は、共和国(北朝鮮)が絶対的に正しいという時代だったじゃないですか。

舘野:そうですね。当時、韓国は軍事独裁の暗く重苦しい国という考えが一般的でしたよね。ぼくは北朝鮮には行ったことがありません。来ませんかと誘われたことはあったけど、行く気がしなかった。

天摩:清田さんから、「海外出版レポート・韓国」の連載第一回(一九八九年一月下旬号)のコピーをいただいてきました。

深田:一九八七年から八八年にかけて、民主化に向けて社会が大きく揺れ動いた韓国で、北朝鮮の文学、歴史、哲学書が条件付きで流通するようになったことを取り上げ、韓国での受け取られ方なども詳細に書かれています。

安喜:出版社は「学者の批判論文を巻末に付すなど工夫をこらし」ながら書籍を出している、と紹介されていますね。北朝鮮文献が南で流通し始めたというまさに時代の転換期、韓国社会が変わり始めていることがわかります。さらには中国朝鮮族関係の出版物の話が三分の一ほど盛り込まれていますが、これはきわめて先駆的な着目ではないかと思います。

舘野:ぼく自身、韓国に関わっていくなかで中国朝鮮族の方々とのネットワークが広がっていきました。一九八〇年代の終わり頃には、留学生のアパートの世話を焼いたりなど、何かと彼らのサポートをしてたんです。ぼくも彼らからいろいろ教えてもらったおかげで東アジア理解の幅が広がり、付き合っていくなかで本を二冊つくることができました。友人三人と共訳した『聞き書き 中国朝鮮族生活誌』(社会評論社、一九九八年)、韓国でベストセラーになった本を翻訳した『日本人のための「韓国人と中国人」 ―中国に暮らす朝鮮族作家の告白』(三五館、一九九八年)です。

安喜:『聞き書き 中国朝鮮族生活誌』の訳者は舘野さんだったんですね。刊行された当時、読みました。
 韓国・中国の出版物の紹介のみならず、中国朝鮮族の方々とも深く関わってこられたということですが、ここで舘野さんの生い立ちを振り返っておきたいと思います。一九三五年に大連でお生まれになり、幼少期を過ごされたんですよね。

舘野:大連にいたのは小学校一年生までで、その後、旧満州の遼陽(瀋陽の南)で一年暮らし、華北の(河北省)で敗戦を迎え、一九四五年一二月に引き揚げてきました。親父は満鉄から子会社の華北交通に出向し、単身赴任で北京にいたときに病気に罹り、四五年一〇月に亡くなりました。ぼくたち兄妹は四人、おふくろは妊娠していた。荷物は遺骨も含め背負えるだけ。だけど、引き揚げ自体は非常に早かったし、比較的スムースに帰ってきたほうでした。引き揚げてから、幼い弟が栄養失調で亡くなりました。
 引き揚げ先は、母の実家の山形です。そこに三年ほどいて、中学を出てからは、鶴岡市内の夜間の工業高校に通いながら旋盤工として四年間働いて、卒業後に上京しました。大学に入るつもりはなかったけど、同じ工場に勤めてた奴が中央大とか法政や早稲田の夜間に通っていた。それに刺激を受けて、法政大学に入ることにしたんです。

深田:苦学されながら大学に入り、中国研究会に飛び込んだということですか。六〇年安保のときにはすでに大学を卒業されていましたか?

舘野:はい。もう都庁に勤めていました。
 大学では、生まれ育った中国のことをもっと知りたいと思って、一年生の終わり頃に中国研究会に入りました。当時は、革命中国。一九四九年に中華人民共和国ができるわけだけど、その後にアグネス・スメドレー、エドガー・スノーとか、いろんなルポルタージュが出る。すごく影響されました。ぼくが知っている昔の中国がこんなに変わったのかと思って、さらに知りたいとなるわけです。
 文化大革命が起こった一九六六年は、都庁職員として日中友好の活動に力を注いでいるときでした。かなり入れ込みました。つまり、文革を全面的に支持するわけです。今思えば、バカなことをやっていた。ぼくは文革が収束する直前の一九七七年、戦後初めて中国に行きました。暮らしている人たちの目がもっと輝いていると思ったら、以前と変わらないような暮らしがあった。こんなものか、期待に反するなと感じました。

安喜:「文革が収束してからは、対象を韓国に転換」と書かれていますが、実はその一〇年近く前からすでに韓国にも視座を置かれていたんですよね。全共闘世代の深田さんから見て、舘野さんはなぜ対象を韓国に移されたと思われますか?

深田:中国へ行ったときに、一人ひとりの顔が韓国へ行ったときの一人ひとりの顔と違うように見えたからではないですか? 韓国は独裁政権下であるけれど、ものすごくエネルギーに満ちている。怒りを含め、日本の敗戦直後のようなエネルギーがあったと思うんですよ。中国は、やはり一党独裁の国であるから。顔つきが全然違ったのではないでしょうか?

舘野:そうですね。中国には最初の一、二回は団体で行きました。当時は団体じゃないと行けなかったから。それであちら側も、団体に対する顔つきをしていて、見せるものが違う。その後、こちらが一個人として行くようになると相手にも個人が現れてくる。今でも文革時代の中国観が私の中でそのまま続いているわけじゃないですよ。中国にはやはりたくましさがあるし、個人のユニークな生き方があると思っています。韓国でのたまたまの出会いが個人だったのに対して、中国の場合は組織というかイデオロギーに支配されている中国人だった、という印象はありますね。北朝鮮は完全に今もそうだろうとは思う。なかなか個人には会えないだろうから、行ってみたいという気持ちはないですね。

安喜:いわゆる日中友好というのは、国と国とのお付き合いのようなところがあって、建前なんですよね。だから、舘野さんが一九六八年に初めて韓国社会に触れられたとき、生身の人間との出会いがあって、そこから生身の韓国の人との付き合いが始まるということなんですね。

舘野:かっこよく言えばね。ぼくは役人になったくせに、組織で規定された考えみたいなことを言うのは好きじゃないんですよ。韓国・中国に対しても、やはりそうです。表面的にわかりきったことを言われると、そんなことは聞くまでもないという気持ちになる。だから、中国に対してひと頃は熱が冷めてしまった。

安喜:韓国も民主化以前の時代には出版に関して相当な規制があって、そういう制約のあるなかで、韓国本をウオッチし始めるわけですよね。
舘野:一九八五年に東京都主催の「世界大都市サミット」が開かれて、世界の大都市の首長が集まりました。その時、韓国やりますって手を挙げてソウル担当になりました。まだソウルと姉妹交流がない時期です。それがきっかけで、ソウル市役所の連中とだいぶ親しくなった。その後、一九八八年にソウルと東京が姉妹都市になるんです。その頃はだいぶお手伝いしました。
 「出版ニュース」に連載を始める以前からウオッチしていましたけど、本格的にやらなきゃいけないと思ったのは連載を始めてからです。三〇年続くなんて思わなかったけど、早いものですね。

深田:「出版ニュース」の連載が始まってからというのは韓国社会がドラスティックに変わっていく時期で、民衆が民主主義を勝ち取っていく場にまさに立ち会ったわけですね。

安喜:前に舘野さんからうかがいましたが、今の韓国の出版を担っている社長世代は、民主化闘争で投獄された経験をもつ人が多いのですよね。
 最後に、草の根の文化交流というなかでも、とりわけ出版を媒介にして交流しようと思われたのはなぜか、お聞かせください。

舘野:お互いに理解し合うことがまだまだ充分じゃないと思っているからですね。日本にも向こうにも、いいコンテンツがたくさんあります。間に多少知っている人間が入れば、流通がもっとスムースにいくんじゃないかと考えています。最近になって、韓国の翻訳書が日本でもかなり出版されるようになってきていますが、若手のベストセラー小説が中心です。本当に出版されればいいもの、もっと紹介する必要のあるものはまだまだ出版されているわけではないですから、これからも場所を移して紹介を続けていきたいと思います。

天摩:舘野さんが三〇年間休まず連載された「出版ニュース」は、三月に惜しまれながら休刊となりましたが、K-BOOK振興会のウェブサイト「K-文学ドットコム」では新たに「韓国出版レポート」の連載が始まるんですよね。毎月中旬の更新が楽しみです。


舘野さんは、長年にわたって一般社団法人出版文化国際交流会の理事を務めてこられ、2001年に外国人として初めて「韓国出版功労賞」を受賞されました。「民間人として日韓両国の出版文化の橋渡しの役割を担ってきた長年の業績が讃えられた」と当時の「出版ニュース」(2001年11月中旬号)に書かれてあります。(事務局・天摩)

(「NR出版会新刊重版情報」2019年5・6月号掲載)

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