2012.09.26 up 



 ●追悼・出版人をしのぶ
 高橋昇と「技術と人間」
天笠啓祐(元「技術と人間」、現ジャーナリスト)

 「技術と人間」社をずっと牽引し続けた高橋昇さんは、本を出すことが好きで好きで仕方がない人だったが、なかなか出版人になれなかった人である。もともとは金属の研究者で、それもアルミの錆という小さな世界にとりくんでいた。助手にまでなり、そのまま大学に残れば教授になった人である。しかし、アカデミズムが肌に合わず、アグネという理工系の出版社に入社した。アグネは雑誌『金属』を刊行していた。このアグネについて高橋さんは、「金属業界にばかり目が向かい、出版業界には疎かった」と述べていたが、「疎かった」点は高橋さん自身にも言えることだった。

 その高橋さんが、刊行したくてたまらなかった雑誌が『技術と人間』だった。しかし、広告収入で生きているアグネの編集長として、広告がとれる雑誌を作らなければならなかった。まず広告用に作った見本誌『技術と人間』ゼロ号は、金属業界に配慮した、「金属」の延長線上にあるような中途半端な雑誌だった。

 ところが、一九七二年に刊行した創刊号というと、高橋さんの心の中で何かが吹っ切れたのか、路線を大きく変え、告発型の雑誌へと変身していた。しかし、その結果、当然のことながら広告収入はなく、慢性的な赤字となり、ついにアグネから廃刊を迫られることになった。高橋さんは、独立を決断、こうして「株式会社 技術と人間」が設立された。一九七四年のことだった。

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 高橋さんは、第二次大戦時、学徒動員で国内の高射砲部隊に配属された。いつも口癖だったのは、「日本の高射砲は、米軍機が飛ぶ高さまで届かなかった。発射すると場所が分かり攻撃を受けるので、発射しなかった」だった。戦後は、水戸高生だったことから東大に無試験で入学した。口癖は「東大生だってこんな人間もいるんだ」であった。水泳部に属していたため、走者不足から箱根駅伝に駆り出された。「タスキをもらって走り始めたが、すぐに泡を吹いて倒れ、病院に担ぎ込まれた」という。大学生活ではポポロ劇団に属し、ポポロ事件(劇場にいた私服警官を学生が取り押さえた事件)を引き起こすことになる。

 このような経歴からか、先に述べたようにアカデミズムではなくジャーナリズムへの道を歩むことになった。

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 独立はしたものの、企業経営、取次との交渉、書店回りを含めて、何もかもが初めてだった。月刊雑誌を持っていたこと、それもすでに刊行して流通している雑誌であったことが、取次との取引を可能にし、独立を可能にした。しかし、経営はいつも超低空飛行だった。社員はついに増えず、総勢二人か三人だった。編集者が作る出版社はうまくいかない、という言葉があるが、まさにその通りになりつつある時、フランス帰りの高須次郎君(現・緑風出版代表)が参加して、「技術と人間」社に活気をもたらした。彼は営業の方法を熟知していたからだった。

 そして、出版界での生き方を学ぶことができたのは、NR出版協同組合に参加してからである。参加を強く支持したのが高須君だった。高橋さんにとっても、この参加は大きな転機となった。初めて、広く出版社との交流が生まれ、それまで一出版社の世界に小さく閉じこもっていた「技術と人間」社を、大きく出版業界の中の一員として実感させてもらったからだ。小汀(おばま)良久さん(新泉社創業者、当時のNR出版協同組合理事長)をはじめ、個性あふれる人たちとの出会いが、高橋さんをして、初めて「出版人」に変えてくれた、といっても過言ではない。

 一九七四年に独立して二〇〇五年に店を閉じるまで、「技術と人間」社を支えてくれたのは、著者と読者だった。一〇〇〇人近い定期購読者が、会社を支えてくれた。また、読者の多くが執筆者でもあった。『技術と人間』誌の取り柄は、ほかのジャーナリズムが「売れない」と判断すると見捨てる課題でも、追いかけ続けた点である。チェルノブイリ原発事故に関しては、毎年四月号で特集を組み、それを一九年間続けた。しかし、高橋さん自身、いくら水泳で鍛えたとはいえ高齢化には克てず、二〇〇五年についに終刊とし、会社も閉じることになった。

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 今年、大月書店から『『技術と人間』論文選問い続けた原子力 1972―2005』という題で、これまで『技術と人間』誌に掲載された主要論文を一冊にまとめることができた。この作業を行うにあたって、久しぶりに高橋さんと何度も会い、共同作業ができた。また二月一九日にはある研究会の集まりで、高橋さんの活動の歴史を聞くことができた。しかし、この単行本の作業を生前の最後の仕事にして、八月九日に、その高橋さんが他界された。

 高橋さんは、生前から何もするなと言っておられた。葬儀も行わなかった。何もしない代わりに、この文章で追悼とさせていただく。


 


雑誌『技術と人間』ゼロ号(一九七一年)と創刊号(一九七二年)。創刊当初、20代の学生や若い技術者をはじめ、幅広い層の読者からの投稿が毎号寄せられた。


NRが出版協同組合だった頃、「技術と人間」は1982年から15年間、加盟社として会の活動に参加していました。雑誌『技術と人間』は、当時、営業運転が始まったばかりの原子力発電の危険性をはじめ、環境問題や生命科学、情報化など、弊害を顧みずに突き進む現代技術の発達に一貫して警鐘を鳴らし続けた、稀有な雑誌でした。高橋さんは8月9日、享年86歳で亡くなりました。「技術と人間」の立ち上げから20年間、高橋さんと「読者とともにつくる雑誌」を目指し一緒に歩んでこられた天笠さんに、高橋さんと「技術と人間」のことを綴っていただきました。 (事務局・天摩くらら)

(「NR出版会新刊重版情報」2012年10月号掲載)

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